そもそも基礎・基本って、なに?
付き合っていられない…ですか?
「勉強は、しているのだけれど…」とか、「塾で真面目に取り組んでいるのに…」という人が居ます。そういう、努力の成果が出ない人の九割は、基本がなっていない、と主宰者の経験からは言えます。成果を焦っているからなのか、そもそも基本に無関心だからなのか、基本を重視する指導を受けていないからなのか。いずれにしても、それでは努力も空回りになるというものです。
物事を学ぶに際して、「基礎」や「基本」が大切だ、と言います。これは、間違いありません。
しかし、わざわざこう言うのは、この大切なものが大いに誤解を受けている事も、また間違いないからです。すなわち、「基本とは、簡単な事柄だ」と。そして、軽く考えられがちです。
冗談じゃない――と、学習指導の仕事を続ければ続けるほど、強く思うようになっている私です。
さて、基礎というのは、もとは建築の用語です。これが、勉学その他の所でも比喩的に用いられている訳ですが、見事な比喩です。
建物を築くに際して、基礎は絶対に欠かす事が出来ません。第一に、これを造らなければ始まらず、然る後いつまでも、これに支えられるのです。勉学においても、基礎とされる事柄は絶対に欠かす事が出来ません。やはり、これを第一に理解し、憶えなければ始まらず、然る後いつまでも、これに頼る事になるのです。
だから基礎工事で手を抜くと、粗末な建物しか造れません。当然、その耐用年数は短いことでしょう。勉学においても、基礎とされる事柄を疎かにすると、知識は獲得できません。雑学に過ぎなくなってしまい、それもすぐに忘れてしまいます。
造ろうとする建築物が大きければ大きいほど、基礎は大きくて堅固でなければなりません。勉学においても、獲得しようとする知識に応じて、必要になる基礎は幅広くなり、かつ、どれもが確実でなくてはなりません。
建物が出来上がってしまえば、基礎は見えなくなります。勉学においても、知識を得てしまえば、基礎とされる事柄は意識に上りにくくなります。
基礎工事が簡単だとは限りません。むしろ、簡単でない場合が多いでしょう。勉学においても、基礎とされる事柄を理解し憶える事は、簡単だとは限りません。むしろ、簡単でない場合が多いものです。
手許の国語辞典を引いてみました。「基礎」にしても「基本」にしても、その意味として「大本」であるとか「土台」であるとは書かれていても、「簡単な部分」などとは書かれていません。「基礎」も「基本」も、簡単という意味を含む語ではないのです。
そんな「基礎」「基本」は、いったい何故、勉学において軽く見られがちなのでしょう。理由として、三つ考えてみました。
一つ目です。
学習参考書や問題集などを開いてみると、よく基本問題と言われるものが載っています。基本的な事柄が判っているか、憶えられているか、それを試す問題です。この目的ゆえ、たった一つか二つの基本的な事柄を手掛かりに、単純な過程を経るだけで答えが出るように作られた問題です。
だから、「基本なんて簡単。サラリと済ませればいい」との誤解が生まれるのでしょう。
しかし、過程が単純である事と簡単である事は、区別されるべきです。さらに、仮に基本‘問題’が簡単だとしても、それは、基本‘事項’が簡単だという事を意味しません。また、基本問題を解く事は、基本事項についての理解を深める事も目的です。この意味でも、仮に簡単な問題であっても軽く受け流す訳には行かないのです。
二つ目。
知識を獲得した者にとっては、「基礎」や「基本」は、もはや当たり前と言える事柄です。確かに、それは簡単に感じられているはずです。また、当たり前であれば、既に述べたように意識に上りにくくなります。
裏側から言えば、基礎や基本が簡単に感じられる程になり、意識に上らない程になってこそ、知識が得られたという事でしょう。そういう熟達した者だけが「基本は簡単」と言っていれば良かったのに、これを一般論と思ってしまった人が、少なからず居るようです。
実際、甚だ遺憾な事に、「基本は簡単」との誤解に基づく勉強方法や指導方法が、多く採られています。すなわち、基本を軽くあしらい、理解が不十分な段階で応用問題の「解き方」を憶え込もう(教え込もう)とします。
これだと上手く行っても、せいぜい明日の試験が乗り切れるだけでしょう。また、乗り切れたとしても、一週間後には覚束なくなるものです。と言うのは、ただ手順を後追いしているだけで理解を伴っていませんから、記憶に残りにくいのです。そして、理解できていないからには、少し様子の違った問題が出されると、もう対応できません。
ところで、応用問題などと言われるものは、どのような問題なのでしょう。
それは、答えに辿り着くまでの過程が長かったり複雑だったりして、見通しの立ちにくい問題です。しかし、それを解く手掛かりになるものは、基本事項以外の何物でもありません。ただ、幾つもの基本事項を手掛かりにしないと、答えに辿り着かないようにしてあるだけです。
応用問題とはいえ、くれぐれも、問われているのは基本事項なのです。解く過程の長さや複雑さが、基本問題とは違うに過ぎません。
ですから基本を大切にしない勉強というのは、結局、時間と労力の無駄でしかないのです。試験で点を稼ぐ為に「解き方」を知る事が必要だとしても、それは、基本を得た後でなくてはなりません。
それにしても、試験――。これを乗り切る為に、問題の「解き方」ばかりを知りたがり、基本事項の確認を怠る心理は、もっともなのかも知れません。ただ、それは本末転倒であると、よく諭すとしましょう。
指導者側にも、問題の「解き方」ばかりを、それも、慣れた人の要領や手法を教えたがる人が居ます。これは、すでに基本を得た者を相手にしているならば、有効であると言えます。裏返して言えば、早い段階では一部の者にしか有効でない指導なのです。
しかし、問題を手早く解く技術を伝授している事で、生徒達の為に、さも立派な仕事をしているように本人達は感じているのでしょう。慣れた人の方法は慣れてからで遅くないし、また、そうでないと無駄ですので、このような指導(者)が必要になる場面は、そう多くないのですが。
ところが、このような技術を次々に伝授する人を、一流の指導者と呼ぶ向きもあります。仮に実際に一流だとしても、皆が皆、その一流に合うものでしょうか。ものを学ぶには段階があり、基本を得ていないうちに一流は無駄であり、まして、一流を真似しただけの教授法など迷惑ですらありましょう。
それでも、このような無駄だらけの勉強や指導が、少なからぬ人に効率的で効果的であると信じられています。
試験(に出る問題)に的を絞っていて、それがまさか無駄だとは思えないのかも知れません。問題を解く手法(それも熟練者の)を知る事で、いかにも問題への対応能力が高まり、これが得点上昇への近道に見えるのでしょう。それで効果が出るのは、基本を習得した者だけである事を繰り返し書いておきますが、早く成果を出そうと焦ると、学ぶ者も教える者も、基本という目立たない部分には力が入らないのですね。目立たなくても、急ぐ場合であっても、不可欠だから基本というのに、困ったものです。
また、一流という事についてですが、基本をきちんと理解させる事に長けた指導者は、一流ではないのでしょうか。目立たない部分を作る仕事だから、一流とは思われにくいのかも知れません。しかし実は、基本は導入部とも言え、何も知らない人に教えるものですから、難しいのです。
逆に、「ああすれば解ける」「こうすれば早い」という話は、素人でも出来ます。そして、このような話は、既に基本を得ている人を対象にすべきである事を、くどいようですが書いておきます。
基礎というのは見事な比喩ではありますが、勉学においては、物的に何かを構築する訳ではありません。だからでしょう、基礎を抜きにしても、解法を山ほど憶え(させ)れば誤魔化せるような気がするのは。誤魔化し切れるものではありませんが。ただ、この事が、基礎が軽視されがちな三つ目の理由と考えられます。
もう一つ、建築における基礎とは異なる点があります。何を以って基礎とすべきかが、一概には言えない事です。それは、時と場合によって異なります。人によっても異なります。
だから「基本に取り組め」などと言ったところで、それだけでは言われた方は困ってしまうでしょう。指導する者としても、まず何に取り組ませるべきか、見極め所であり、知恵の絞り所でもあります。
それを怠れば、その場をしのがせるだけで、何ら、知識も能力も獲得させる事は出来ないのです。「基本を笑うものは基本に泣く」のです。