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アロング家庭教師センター
主宰者 松尾宗弘
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能率の上がる勉強方法

コツや要点‘ばかり’知れば、
勉強は出来なくなる。
勉強を試験の為にして‘ばかり’
いると、試験に弱くなる。

 勉学もそうだが、どんな事にもコツがある。
 コツ。漢字で書けば、骨。しかし紛らわしくならないよう、以下、骨とは書かない。その代わり、少し大袈裟な二字熟語を、あえて当てる事にする。
 神髄コツ

 さて、「神髄コツつかめば簡単だ」と、しばしば言われる。これが嘘だという事はない。むしろ、神髄コツを掴んだ以上、その事が簡単であるのは当たり前。
 しかし、これは実は、話が逆立ちしている。
 本来なら、「ある事が簡単に思えるようになって初めて、その事の神髄コツを掴んだ」と、言うべきであろう。問題は、いかに神髄コツを掴むか、である。
 得ようとする技術や能力にもよるが、通常、神髄コツを掴むまでの過程は、楽でない。簡単には掴めないものだからこそ神髄コツというのであり、神髄コツを掴む事は、その分野によく通じる事に他ならない。
 そう思えば、「神髄コツを掴めば簡単だ」なんて、空しく聞こえてくる。
 ところが、広く言われている事である。あたかも普遍の真理であるかのごとく。だからだろう、
「どうしたら数学が出来るようになるのか、神髄コツがあるなら教えて欲しい」
と、数学が苦手な子は皆思う。いや…
神髄コツがあるはずだ。常に百点近く取れる子が掴んでいる神髄コツが。それを教えてくれ。もう細々した話はうんざりだ」
というのが本音だろうか。
 もちろん数学だけでない。どの教科でも、出来るようになる神髄コツを知りたがる。面倒な話は聞き飽きているのだろう。手っ取り早く勉強を済ませたいのだろう。ただ残念ながら、その希望に、私は応えかねる。

 よそには、コツを教えたがる(教えている)指導者が居る事くらい、知っている。だが私には、それを真似する気は無い。その代わり私は、生徒たちが早く神髄コツを会得できるよう、常に図っている。
 そう。神髄コツというのは、教わるものではない。会得すべきものである。私はそう思っている。
 もっとも、私が言う神髄コツと、よそで教えられているというコツは、異なる場合が多い。
 多くの場合、コツと呼ばれているのは、問題の「解き方」「やり方」である。それも、慣れた人の手法だ。それを覚えよ、という。基本など、得ていなくとも良い。意味など、判らないままでも良い。それでも明日の試験で点を稼ぐ術を、コツと呼んでいるに過ぎない。
 そして、子供たちの多くが求めるコツも、これと似たものに過ぎない。それは、はっきり言ってしまえば安易な解決策。努力せずに成績を上げる方法。その場しのぎ。そんなものをコツと呼んでいるのだ。
 それは全く、私の言う神髄コツとは異なる。

 コツを教えるという人は、本人は多分、それで得意になっている。自分の受け持つ生徒が試験で有利になるように、自分が知っている解法コツ――慣れた人の手法を次々に教えるのだろう。
 先述の通り、それを私は真似しない。これが通用する子は限られているからである。
 中には居る。基本を既に心得ていて、問題の解き方を教えると、こちらが解説するまでもなく、何故そうすると有利なのかを理解する子が。そういう子でないと、どうせ解法コツなど教えても覚えられない。慣れた人の手法は、慣れてからでないと無駄なのである。
 普通は基本から説き起こさなければならない。問題の解き方を教えるにしても、基本をおろそかにせず、ただ手順をなぞらせるだけでなく、理解が深まるように図らなければならない。それによって確実に記憶させ、神髄コツの会得を促すのが、私の指導のねらいである。

 神髄コツというのは指導上、曲者くせものである。そして同じような曲者が、もう一つある。
 それは要点。
 「要点を押さえれば、勉強は能率的に進む」などと、しばしば言われる。すると真に受けて、要点から覚えよう、要点から教えよう、あるいは、要点だけ覚えよう、要点だけ教えよう、などと考える人が出て来る。しかし。
 ここで言明しておく。これは愚行である、と。と言うのは、要点の外側(周辺)を知らなければ、要点の要点たる所以が知れないからである。これでは要点は、要点でも何でもなくなる。

 たとえば英和辞典を引いてみる。見出しに語意(本当は主な訳、と言うべだが)が整理されて並んでいる。そして、併せて例文も載っている。何故?
 語意を記憶すれば、つまり要点‘だけ’を覚えれば充分であるのなら、例文なんて不要ではないか。それを、わざわざ書いてある。という事は、その語を理解する為に(覚える為に、ではなく)、例文が必要なのである。要点‘だけ’では駄目なのだ。
 その例文だが、辞書を作った人は、苦労して最小限のものに絞った事だろう。理想を言えば、あの何倍もの例文を載せておきたい。しかしそれでは、ただでさえ厚い辞書が、とんでもないものになってしまう。
 だから、とんでもない厚さでない辞書は、どれほど苦労して作られていても、やはり要点の羅列が中心になっている事は否めない。そういう辞書を使って、「辞書どおりに訳しても駄目だ」と、文句を言う人が居る。確かにそういう事があり、これは辞書が悪いとも言えるのだが、それより辞書の機能の限界を承知していないのが悪い。辞書の使い方が悪い。
 もう少し正確に言えば、見出しの訳を、要点を、額面どおり受けるのが良くない。たくさんの英文を読み、理解を深めよ。すると、辞書どおりの訳が、いかに適切かつ的外れか判って来るものである。
 適切であると同時に的外れなのだ。
 おかしなものだ、と思われるかも知れないが、要点とは、そういうものである。語学に限らず、理解が深まればこの事に思い至るはずであり、思い至って初めて要点を悟ったと言える。その時は、要点の周辺も、要点の要点たる所以も知れているだろう。
 さらに言えば、それで初めて知識を得たと言える。これに対し、要点と言われる事柄‘だけ’を記憶して行った場合、せいぜい雑学が得られるに過ぎない。それは通常、長く記憶に留まらない上、誤解と不正確さと浅薄さに侵されている。

 要点‘だけ’を覚える勉強は、木を見て森を見ないのと同じである。地球を知りたければ、少なくとも太陽系は知らなければならない。映画をクライマックスだけ見て、楽しいか?
 実は、要点を悟る時は、学習が最終的な段階に来た時である。最初から要点を覚えようとしたり、最初から要点ばかり教えようとしたりして、うまく行く訳がない。
 認知科学の用語を借りれば、ボトムアップ(数多の事例から共通点と相違点を整理する)を繰り返し、やっと要点が悟れる。そうなった後に、初めてトップダウン(要点や法則などから各事例を考える)が出来るようになるのである。私は指導者として、速やかにトップダウンが出来るようになるよう、適切なボトムアップ(の過程)を選んでやる事を心掛けている。
 だから私も、要点を重んじてはいるのだ。また、要点を押さえる事で、それに関連する物事が考えやすくなる事くらい、もちろん知っている。ただし繰り返すようだが、要点ばかり教えるような指導は、無駄だからしない。
「否、要点の周辺こそ無駄だ」
と言う人があれば問う。
「人生訓がピンと来るのは、若者か、年配の人か?」
と。

 「要点を押さえれば、能率的に進む」という言説は、一つの要点だろう。ボトムアップとトップダウンの、後者にのみ注目すれば、そう言える。しかし、この言説を無思慮に受けいれ、いきなりトップダウンをしたがる(させたがる)のは、まさしく要点‘だけ’にしか着目しない愚行だ、と言わせてもらう。要点の要点たる所以を知らない証であろう。真面目に勉強したり教えたりした経験がある人では、おそらく、ない。
 「要点を押さえれば、勉強は能率的に進む」などというのは、もっともらしいが塾や教材などの宣伝文句に過ぎない。安直な成績向上方法があるぞ、と見せ掛けているだけなのである。
 しかし、もっともらしいが故に、これを信じてしまう人が、あろう事か指導者たちの中にも居る事を、私は嘆いている。

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